御祭神(二柱神)
大己貴命(おおなむちのみこと)
※別名:大国主命(おおくにぬしのみこと)・三穂津彦命(みほつひこのみこと)
三穂津姫命(みほつひめのみこと)
大己貴命は国土開発にあたられ延命長寿・諸産業繁栄守護の神で、三穂津姫命は御婦徳高く安産子育・子授け・歌舞音曲の神として、そして二神は災いを払い福をお授けになられる除災招福・家庭円満・縁結びの神々と信仰されます。地域住民には三保大明神と親しまれています。
また、三保半島は清水港の天然の防波堤となっており、清水港の守り神・海の神とも仰がれています。
御由緒
千古の昔より、常世の国(海の遙か彼方、神々の世界)より小波の打ち奇する所、常世の神々がお越しになる美味し所、白砂青松三保松原に鎮座し、三保大明神とも称せられ、昔から朝廷を始め源氏・今川氏・武田氏・豊臣氏・徳川氏等の武将に篤く崇敬されました。
信仰は三保の氏神様、清水・庵原の総氏神様として親しまれ、三保清水の文化発祥の地であると共に全国から多くの方々が参拝する御神木「羽衣の松」の名社です。
王朝の制は国司修造し(諸神祭式・類聚国史等)、鎌倉時代に入って幕府が維持修理しました。
大永年間に入ると細川弾正の兵火に遭い一度焼失、今川氏・武田氏が領有時に再建され、その後、豊臣秀吉や徳川家康によって修復されました。
武家時代以降は歴代幕府の崇敬篤く、殊に慶長年間、徳川家康が本殿、幣殿、拝殿、回廊等、計十数棟を寄進新築し、朱塗りの壮大な社殿が建てられました(五年毎に御礼参り、神職より干松露献上)。
朱印高は百六石、除地三百七十一石余を尚陸地より海上一里の海上を領有し、漁獲高の七分の一を神領としました(武田氏の朱印状四通、豊臣氏の朱印状一通、徳川将軍のうち十二人の朱印状)。
なお、寛文八年(1668)落雷のためことごとく焼失し、自力で再建・修復しなければならず往時の盛観には戻りませんでした。
現存する社殿は仮宮として建てられたものですが、本殿は江戸時代中期の代表的建築物として市の有形文化財に指定されています。
古くより桜の名所としても知られ、
『羽衣を祢宜取り出でていにしへの美穂の社に山ざくら咲く』
『朝もなほ羽衣に似る雨降りて桜の濡るる三保の松原』
昭和十一年四月 与謝野晶子
と詠まれています。
「羽衣伝説」の舞台として名高い三保松原は、当社境内含め平成二十五年(2013)六月に富士山世界文化遺産の構成資産として登録されています。
御鎮座
創建は遠く神代に在らんか、日本書記巻二に「高皇産霊尊の勅に日く、今吾女三穂津姫命を以て、汝に配(あわ)せて妻とせむ、宣しく八十萬神(やそよろずのかみ)等を卒(ひき)いて皇孫の為(た)めに護り奉れ、乃(すなは)ち遷(かえ)り降らしむ」云々とあり。
日本惣国風土記に「大己貴命天上(あめ)に登り順う可き条々を奏(もう)し、天乃日鷲大羽鷲羽車に乗り三保の御崎(みさき)に休み給う」云々とあり。
先代旧事本紀に「大己貴命天の羽車大鷲に乗り妻妾(つま)を覓(もと)む」云々とある。大国主命は須佐之男命(すさのおのみこと)の御子で、豊葦原瑞穂国(とよあしはらみずほのくに※日本の国)を開きお治めになり、天孫瓊々杵尊(ににぎのみこと)が天降りなられた時に、自分の治めていた国土をこころよくお譲りになったので、天照大神は大国主命が二心のないことを非常にお喜びになって、高皇産霊尊(たかみむすびのみこと)の御子の中で一番みめ美しい三穂津姫命を大后(おおきさき)とお定めになりました。
そこで、大国主命は三穂津彦命と改名されて、二柱の神はそろって羽車に乗り新婚旅行に景勝の地、海陸要衝三保の浦に降臨されて、我が国土の隆昌と、皇室の弥栄とを守るため三保の神奈備(かむなび)天神の森(現御社殿200メートルほど離れた地)に鎮座されました。
諸神祭式には「駿河国御穂神之祭神人皇十二代景行天皇十年庚辰十一月始神事」とあります。人皇十二代景行天皇十年(約2000年前)、日本武尊勅を奉じ御穂神社に官幣を供し圭田(神田)五百畝を献納した事見え、類聚国史に奈良朝光仁天皇(四十九代)宝亀年間(約1400年前)従一位に敍せられ、醍醐天皇延喜年間には神名帳に式内社として明記されています。
鎌倉時代には源頼朝が当社に神馬を奉納して流鏑馬を行っていた他、武士たちの鎮魂の場としても栄え、舞殿では鎮魂のための舞楽が盛んに行われていました。室町時代には今川義元が公家のおもてなしのため、山科言継と貝島で遊んだ後、当社社殿にて音曲を楽しみ宿泊し、酒樽一、蛤蜊一折、牛黄円二貝を御礼に遣わしたとされます。
そして、江戸時代には幕府庇護の下、舞楽・狂言・能などが盛んに奉納されるなど歌舞音曲に御神徳があるとして篤く崇敬されました。
かつて御穂神社に詣でる人々、遊客たちは渡し船を利用して興津から貝島、塚間に渡って「御穂神社」→「神の道」→「羽衣の松」方面へとたどるのが一般的でした。塚間からの参道は「道者道」と称して賑わった他、途中の貝島には広大な富士見櫓「貝島御殿」があり、徳川家康の保養及び徳川水軍の基地を担っていたとされます。「一月、二月の頃には参宮の道者、興津の駅に下るもの絡駅として絶えず清見寺に詣で三保に渡り(『清見潟日記』)」とあります。
『丁未旅行記』によれば、松原内は「人三人ほど先は見えぬばかり茂りて闇し」と三保半島が隈なく松に覆われていることが確認でき、当社境内においては三十六歌仙の数に驚いたと記録が残るほど神社の規模は壮大でした。
当社創建以来の神事「筒粥祭」は、海岸で神をお迎えする古代の常世信仰を、古式そのまま今に伝えます。
また、創建より鎮魂の巫女舞(羽衣の舞)が伝わります。
創建年代不詳なるも、この地方で最も古い延喜式内社であり、今日のように社殿を建てて神を祀る以前の最も古い原始的な信仰の一つ、常世信仰を源流としています。
“三保”の地名の由来
・三つの崎 (弁天崎、貝島崎、真崎)があり、稲穂状の岬から出来ているから(時代によって三つ以上の岬あり)
・「み」は美称、「ほ」は「秀」で、美しい秀でた岬
・「ほ」は 「兆」で神の座を意味する
以上の三説がよく言われます。
地名は現在”三保”ですが、三穂、御穂、御盧、御大、御尾、美髴、美髣、微方など音読みで時代によって記述が異なります。
鎮守の杜”三保松原”
古より、羽衣伝説と風光明媚な景観で知られる三保松原。
三万本余りの松原と駿河湾に突き出た砂浜、海と富士の眺め、天女が舞い降りた羽衣の松は、万葉の昔より芸術の源泉として、伝説や伝承、多くの和歌・俳句・絵画が生まれ人々に親しまれてきました。
海と松原越しに見える富士山は日本の代表的な風景であり、諸外国にも知れ渡っています。
三保松原の初見は『万葉集』巻三、田口益人「盧原の清見の崎の三保の浦の寛けき見つつもの思ひもなし」で、それ以降、藤原為氏、後鳥羽院、藤原行尹、足利義教など様々な人物が歌を詠み、多くの秀作が生まれました。
かつては三保半島全体が松に覆われており、当時は内湾側から見る富士山の景色が有名でした。
また、浜辺から北側に興津・由比・薩埵峠、東北側に田子の浦、その彼方に富士山・愛鷹山、東側に伊豆半島を望むことができ、古来より東海屈指の景勝地と称されてきました。
「羽衣の松」「神の道(松並木参道)」「御穂神社」は一直線上に立地します。
“離宮”羽車神社のもとにある樹形優美なクロマツ、御神木「羽衣の松」は神の目印である依代であり、神々はここから「神の道」を通って御穂神社へと来臨します。
日本新三景の随一と称せられ、大正十一年(1922)に国の名勝地に指定された三保松原は、現在、ユネスコ世界文化遺産「富士山-信仰の対象と芸術の源泉」の構成資産の一つとして登録されています。
略年表
- 集落成立
- 白浜遺跡_土師器・須恵器・獣形土製品等が出土
- 縁生坊古墳_須恵器・勾玉等出土、当社に石棺あり
- 飛鳥
- 天智二年(663) 庵原君臣、出征
- 和銅年間(708~715) 柿本人麻呂が瀬折戸の急流を詠む(折戸・駒越間は海峡)
- 和銅元年(708) 田口益人が三保を詠む(『万葉集』巻三)
- 奈良
- 天平十年(739) 三保から煮堅魚・塩を朝廷に納める(『駿河国正税帳』)
- 天平勝宝四年(752)「東遊の駿河舞」大仏開眼供養にて奉納、後に雅楽寮に伝承(『東大寺要録』)
- 宝亀二年(771) 「駿河国盧原郡美髴甫神官神部救潮害依之九月十五日叙従一位」(『類聚国史』)
- 平安
- 仁寿元年(851) 「五月四日駿河国伊穂原郡美髴神社従三位」(『類聚国史』)
- 貞観七年(865) 「十二月廿一日授駿河国従五位下御盧神従五位上」(『三代実録』)
- 元慶三年(879) 「四月五日授駿河国従五位上御盧神正五位下」(『三代実録』)
- 延長五年(927) 御穂神社『延喜式』神名帳に登載
- 諸郡神階帳に「従二位三保明神」
- 応徳三年(1086) 『後拾遺和歌集』の能因法師が和歌を詠む(折戸・駒越が陸続きとなったか)
- 元歴元年(1184) これより以前に作られた『太刀』(附 糸巻太刀拵)伝三条小鍛冶宗近作が当社に伝わる
- 鎌倉
- 建久年間(1190~1199) 源頼朝が当社に神馬奉納、流鏑馬の祭礼寄附(『太田家文書』)
- 保元元年(1156) 源為朝が大島に流される途中、船は大時化にあって三保の海岸に漂着したと伝わる(→三保に伝わる為朝伝説)
- 建長年間(1249~1256) 鎌倉幕府五代将軍藤原頼嗣によって、御社殿造営(『式内三穂神社取調書』)
- 文保三年(1319) 当社に鰐口奉納(神主息長氏女より施入)
- 南北朝
- 応安3年(1370) 今川範国、三保大明神々木を切り取ることを禁ずる旨の下知状を発す(『伊達文書』)
- 室町
- ~永正十五年(1518) 世阿弥が謡曲『羽衣』作成と伝わる
- 永正十五年(1518) 柴尾軒宗長『閑吟集』を著す(120~125番に三保を歌った田楽、小唄あり)
- 大永二年(1522) 当社御社殿、細川弾正の兵火に遭い焼失
- 天文二十四年(1555) 今川義元と山科言経(京都公家)が当社参拝、羽衣の松見物
- 永禄十年(1567) 連歌師里村紹巴、「原にあまた馬あり神の牧と言へり」と記す、古くより多くの野馬が生息したか(『駿河志料』)
- 安土桃山
- 天正五年(1577) 武田家より当社神主、松原浦の安堵、船三艘の諸役免許、早船役を勤め、三十二の塩釜を許可
- 天正十八年(1590) 豊臣秀吉、小田原攻めの折に当社参詣、安堵の朱印状を授く
- 天正十八年(1590) 豊臣秀吉によって御社殿修復(『式内三穂神社取調書』)
- 慶長年間(1596~1615) 徳川家康によって御社殿修復(『式内三穂神社取調書』)
- 慶長六年(1601) 徳川家康、東海道五十三次の宿場制定、江尻宿設置
- 慶長七年(1602) 徳川家康、当社に三保・織戸・別府の百六石と塩畑二十九ヶ所、船三艘・山林竹木の寄附状(『太田家御朱印拾通写』)
- 慶長九年(1604) 井出正次三保神領縄打高覚に合計百石余の社領(『太田家文書』)
- 慶長十五年(1610) 徳川頼宣、貝島に浜御殿・富士見櫓造営(『柴田家文書』)
- 江戸
- 元和二年(1616) 林羅山が訪れ、羽衣天女の詩を作成(『丙辰紀行』)
- 寛永四年(1627) 駿河国江尻の宿舎にて徳川義直、当社神主に祭神の事を尋ねたと伝わる
- 正保二年(1645) 久能山東照宮初代祭主榊原内記照久当社に林羅山銘入り鐘を寄進(『駿府巡見帳』)
- 寛文七年(1667) 備前岡山藩の第二代藩主池田綱政当社に寄る(『丁未旅行記』)
- 寛文八年(1668) 当社御社殿、落雷のため焼失
- 元禄十六年(1703) 駿府目付・三島清左衛門、当社視察(『駿府巡見帳』)
- 享保年間(1716~1736) 志貴昌澄『駿河御穂社記』を著す
- 享保十一年(1726) 当社屋根の葺替(本殿萱葺を厚柿葺、拝殿柿葺を瓦、舞殿大板葺替を薄柿葺)(『村中用事覚』)
- 寛保二年(1742) 久能山遷宮工事のため松材600本伐採(『古今年代記』)
- 安永二年(1773) 駿府大火にて静岡浅間神社の神馬二頭が当社へ逃げ、内一頭は残り、一頭は戻ったと伝わる
- 享和三年(1803) 伊能忠敬、清水湊より船に乗り三保村に至る
- 天保十二年(1841) 大地震によって当社石鳥居、石灯籠破損(『三保來歴』)
- 明治
- 明治六年(1873) 当社 郷社 指定
- 明治三十一年(1898) 当社 県社 指定
- 明治四十年(1907) 和田英作画伯、三保を訪れる
- 明治四十三年(1910) 当社境内に華表公園設置記念之碑 建立
- 明治四十五年(1912) 北原白秋来清の際、当社神馬のチャッキリ節を詠む
- 大正
- 大正三年(1914) 当社境内にて田中孫七翁表功碑 建立
- 大正五年(1916) 三保松原、日本新三景 選定(実業之日本社主催)
- 大正十年(1921) 『太刀』(附 糸巻太刀拵) 重要文化財
- 大正十一年(1922) 名勝三保松原 指定(『内務省告示第四十九号』)
- 大正十一年(1922) 与謝野晶子が当社の桜を詠む
- 大正十三年(1924) 三保村が清水市三保となる
- 昭和
- 昭和二十七年(1952) 羽衣(エレーヌ)の碑 建立、梅若万三郎の野外能“羽衣”上演
- 昭和三十一年(1956) 羽車神社再建(石造りの社殿)
- 昭和四十五年(1970) 三島由紀夫『豊饒の海』第四巻「天人五衰」の舞台となる
- 昭和五十五年(1980) 当社大祭(筒粥祭)にて「羽衣の舞」復活
- 昭和五十八年(1983) 日本の名松・100選 選定(社団法人日本の松の緑を守る会)
- 昭和五十九年(1984) 観世清顕氏により能“謡曲羽衣”上演、「第一回羽衣まつり薪能」開催
- 昭和六十三年(1988) 御簾二張 清水市(現:清水区)指定有形文化財
- 平成
- 平成八年(1996) 当社本殿(附 棟札二枚、狛犬一対)、清水市(現:清水区)有形文化財
- 平成十五年(2003) 当社神馬 造営
- 平成十七年(2005) 清水市三保が静岡市清水区三保となる
- 平成十七年(2005) 当社一の鳥居 再建
- 平成二十一年(2009) 神社松並木参道“神の道”にウッドデッキを敷く
- 平成二十二年(2010) 御神木「羽衣の松」樹勢の衰えにより三代目へ御霊遷
- 平成二十五年(2013) 遷座祭(平成22年~当社本殿保存修理事業)
- 平成二十五年(2013) 富士山世界文化遺産の構成資産として登録
- 平成三十一年(2019) 静岡市文化創造センター「みほしるべ」完成
- 令和